あの日、ここで彼女は地面に文字を書いた。
「ツタっていうの」
子犬のようにクリクリとした瞳。
「草冠に鳥って書くの」
珍しい名字でしょう? と同意を求めるその声には、過去の恋を憂う寂しさはない。
過去のことだ。
そう言い聞かせながら、心が重い。
そもそも、二人が今まで出会わなかったコト自体、奇跡だ。もし蔦康煕=コウがこの施設に足を踏み入れるようなことがあったならば、もしかしたら二人は出会っていた―― 再会していたかもしれない。
昔は想い合っていた二人。今、もう一度出逢ったとしたら?
蔦康煕。
彼がもし自分のそばから離れてしまったら?
強く頭を振る。
考えたくない。
二人を――― 会わせたくない。
今度は少し虚ろな瞳。再び背後を振り返る。
どこ行ったんだろ?
唐草ハウスで寝泊りしているシロちゃんが、外出することは滅多にない。だが今日は、その姿を見かけない。
出かけたとしか考えられない。
訝しく思って安績に尋ねたが、知らないと返された。
「別に思い悩んでいた様子もなかったわ。心配することもないんじゃないかしら?」
安績にそう言われてしまうと、ツバサは納得するしかない。
そもそも、年頃の少女が家から一歩も外に出ずにいること自体、不健康だ。外に興味を持つのも外へ出るのも、別に不自然なコトではない。
夢遊病などを患っているワケでもない。それに、今は真昼間だ。
この家で過ごす子の中には、自殺願望を胸に持つ子もいる。だがシロちゃんには、そのような様子は感じられない。
そんな子に限って衝動的に命を絶つこともあり、そんな事態にでもなればそれこそ一大事なのだが―――
安績さんが言うなら、気にすることはないか。
そう言い聞かせたところに、携帯の着信音。
「おうっ 遅くなったな。もうすぐ着くよ。あと五分」
コウの声。いつになく明るい。
最近、会えないと断ることが多かった。今日は断らなかった。
だってシロちゃんがいないから。
入り口で待っていると伝え、携帯を切った。
もしシロちゃんが外出しているのなら、いつ帰ってくるかわからない。入り口にコウを待たせては、二人が鉢合わせするかもしれない。
勢い良く立ち上がり、石段を飛び降りたところに幼児が一人走ってくる。
「ねぇっ!」
急いでいるのか、息を切らせながらツバサに飛びついて来る。
「シロちゃん、知らないっ?」
「え? し、知らないよ」
シロちゃん という名前にドキリとしながらも、なんとか簡潔に答える。
ツバサの言葉に、幼児はガッカリした様子で肩を落とす。
「どうしたの?」
ツバサの問いかけに顔をあげ、手にした封筒を差し出した。
「これ、シロちゃんにって」
差し出された封筒に手を添え、そっと受け取る。宛名はない。
「どうしたの?」
「あそこでね、男の人に、シロちゃんにって」
振り返って指差す。庭の木々が茂ったその先は施設の入り口。
…………
「あのね」
しばらく思案し、ツバサは膝を折って幼児と同じ高さに目線を下げた。
「シロちゃん、今ちょっとお出かけしてるの」
「そうなの?」
「うん。だからね、これ、私が預かっておくよ」
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